1716年~2018年3月 新燃岳の噴火

【災害名】 新燃岳の噴火(しんもえだけのふんか) 【時期】 1716年~2018年3月7日 【概要】 霧島山最高峰である韓国岳と霧島山東部に聳える霊峰高千穂峰の中間付近に位置し、獅子戸岳と中岳の間に割り込むようにして聳えるなだらかな円錐台形の火山であり、山頂に直径750mの円形火口を有する。 火口底には平成噴火前まで直径150メートル (m)、水深30mの青緑色を呈する火口湖の新燃池が存在していた。地質は輝石安山岩からなる基盤山体の上に火砕丘が重なった構造となっている。 平成噴火前まで高千穂河原から中岳を経由した登山道が整備され、山頂付近の植生はススキを中心とした草原となっており、所々に低木のミヤマキリシマ群生地が散在していた。 当時も火山活動によってしばしば登山禁止の措置がとられる。 【被害状況】 享保噴火 1716 - 1717年の一連の噴火活動は水蒸気爆発に始まりマグマ水蒸気爆発からマグマ噴火へと変化し断続的に約1年半続いた。火砕物降下によるマグマ噴出量は0.07DREkm3。火山爆発指数:VEI4 享保年間の活動は、第1期(1716年4月10日,5月7日)、第2期(9月26日)、第3期(11月9日)、第4期(12月)、第5期(1717年2月)、第6期(3月から4月)、第7期(9月6日)の7期に分けられる。 この一連の活動では第3期において最大の人的経済的被害を生じ、死者5名、負傷者31名、神社・仏閣焼失、焼失家屋600余軒、牛馬405頭死などの記録が残っている。 文政噴火 1822年1月12日(文政4年12月20日)朝、山頂付近に白煙が観察され、夕方に水蒸気爆発を伴って噴火した。14日(22日)には南方を流れる天降川で火山泥流が発生している。 8合目付近に新しい4カ所の火口が形成され、軽石や火砕流の噴出を伴う噴火が繰り返された。 昭和噴火 1959年(昭和34年)、中規模噴火。火山爆発指数:VEI2。 2月13日、降灰を伴う小規模な水蒸気噴火があった。噴火に先立つ前兆現象は観測されていない。小規模爆発の後、14:50に爆発的噴火が発生。 2月17日14時50分、爆発音と空振を伴って噴火が始まり、黒色の噴煙が上空4,000mに達した。その後数日間にわたって噴火を繰り返した後、次第に終息していった。 噴出物にマグマの成分を含まない水蒸気爆発であり、噴火のエネルギーは101Jであった。新燃池の北西岸から火口壁を越えて山腹に至る直線上に約20個の小火口が形成され、噴出した噴石は1万t、火山灰は860万t。 1991 - 2010年の活動 2003年の山頂火口。火口底には池があった その後しばらく顕著な活動は観測されず、表面的には平穏であったか、1991年に噴気活動を再開して以降、2005年から2007年にかけてGPS観測で山体膨張が観測されたほか時折、地震活動の高まりが生じていた。 2008年に山頂直下の火山性地震が増加し、17年ぶりに水蒸気噴火が起こった。 2005年9月から2007年9月には山頂部が膨張し、2007年9月から2009年12月頃までは山頂部は収縮に転じたが、再び広い範囲で膨張が起こり2011年1月の噴火に至った。 観測データ解析の結果、山頂部膨張の圧力源は山頂直下610m(標高790m)で体積は88*103m3程度と求められた。深い場所のマグマ溜まりへのマグマの蓄積は2006年から2009年12月ころには始まっていたと考えられている。 2008年(平成20年)8月22日、小規模な水蒸気噴火が発生。噴出量は約20万トンと推定。噴火警戒レベルが2に引き上げられた。その後噴火は発生せず、10月29日に噴火警戒レベル1に引き下げられた。 2009年(平成21年)4月下旬頃、新燃池の色がエメラルドグリーンから茶色に変色し、7月初旬頃に再び元に戻る現象が見られた。 2010年(平成22年)3月30日、小規模な噴火を確認、噴火警戒レベルが2に引き上げられ、火口周辺1km立ち入り規制が敷かれた。 その後、断続的な火山性地震及び火山性微動と、5月から7月にかけ火口外へ影響を及ぼさない小規模な噴火活動が観測された。5月27日の噴出物からは微量のガラス質のマグマ由来物出を検出。

2014年9月 御嶽山噴火

【災害名】 2014年の御嶽山噴火(2014ねんのおんたけさんふんか) 【時期】 2014年(平成26年)9月27日11時52分(日本時間) 【概要】 山頂の南西、地獄谷付近の地下にあった熱水溜まりが何らかの原因で過熱(あるいは減圧)したことにより急膨張した結果、突沸し噴出に至った。山頂付近で噴火に遭遇し生還した登山者によれば、「最初の噴出は岩がぶつかるような音で始まり、爆発音はなかった」との証言がある。新たな火口は、1979年噴火の火口列の南西250 - 300メートル付近の位置に平行に複数個が形成され、最初の噴火では火砕流も発生し、火口南西側の地獄谷を約3キロ程度流下、火口北西側の尺ナンゾ谷にも流れ下ったことが観測された。また、降下した火山灰を構成する粒子は大部分が変質岩片で構成され、マグマ由来の成分は検出されていないため、今回の噴火は水蒸気爆発と分析されている。日本国内において噴火災害で死者を出したのは、1991年6月3日の雲仙・普賢岳の大火砕流以来となり、死者数も雲仙・普賢岳の43人を超え、戦後最悪の58人となった。東京大学地震研究所助教授で火山学者の金子隆之は、噴石の初速を360メートル毎秒(時速1,296キロメートル、約マッハ1.05)、山頂付近での速度を300メートル毎秒(時速1,080キロメートル、約マッハ0.88)と推定している。 【被害状況】 噴火警戒レベル1(平常)の段階で噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡した、日本における戦後最悪の火山災害である。今回の噴火は地下水がマグマに触れ、蒸発した水蒸気が圧縮されたことによる水蒸気爆発型噴火であった。9月10日には52回、翌11日には85回の火山性地震が観測されており、12日には気象庁は「火山灰等の噴出の可能性」を発表し、各自治体にも通知した。しかし2007年噴火のような山体膨張や火山性微動といったマグマの上昇を示すデータは観測されなかったため、警戒レベルは平常時と同じ「1」のままにし、レベル2(火口周辺規制)には変更せず、その後地震の回数が減ったことから、自治体も注視するに留め、登山者への警戒呼びかけなど新たな対応を求めることはなかった。つまり、自治体の担当者が判断の根拠とした諸情報を組織の内部に抱え込んでいるばかりで、肝心の一般登山者に直近の情報をまったく伝えていなかったため、一般登山者は警戒することすらできなかった。 【特記事項】 噴火自体は他山の例と比較した場合小規模で、1979年にほぼ同じ場所で発生した同規模の爆発では1人の死傷者も出さなかったにもかかわらず、今回は日本国内では1991年の雲仙普賢岳以来、死者数は戦後最悪となる多数の人的被害を出し、登山客が巻き込まれたものとしては明治以来最悪となった。これは、被害を増大する複数の要因が重なったためであった。

2000年6月 三宅島の噴火

【災害名】 三宅島(みやけじま)の噴火 【時期】 2000年6月26日18:30過ぎ 【概要】 6月26日18:30過ぎから三宅島直下で激しい群発地震が始まった。この活動は1983年の噴火直前と酷似しているとして、19:33に気象庁は噴火の恐れが高いと判断し「緊急火山情報」を出した。 翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。 6月27日9:00頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が海上保安庁により確認されるにとどまった。 【被害状況】 地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。7月1日16:00過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が神津島近海で発生、神津島では震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。 噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化し、一方で7月に入ると雄山火口直下の地震が7月4日から再び活発化した。 7月8日18:41に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口(カルデラ)ができていることが翌7月9日朝になってから確認された。 これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。 その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。 7月14日、15日には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。 8月10日の朝6:30頃、山頂の陥没口からついにマグマ水蒸気爆発とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。 その後の爆発は激しさを増してゆき、8月18日の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な火砕サージ、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し火山弾は住宅地にも落下した。 8月29日早朝の午前5:00過ぎの大規模噴火では低温の火砕流が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。 この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった。 この噴火では6:00過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。 小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m3と推定されており、御蔵島だけでなく100km以上離れている八丈島でも降灰が確認されている。 【特記事項】 火山の噴火活動は18日のものをピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。 8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに二酸化硫黄の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した。 火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。 火山ガスの放出は2004年7月20日に観測されたのを最後に1日あたり1万トンを下まわるようになり、翌年2月には全島避難が解除された。 しかしその後も火山ガスの放出は継続し、2011年の半ばになってほぼ1日あたり1000トンを下回った。 2013年1月22日を最後に噴火活動は認められていない。 ガスの放出も2016年夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている。

2000年3月 有珠山の噴火

【災害名】 有珠山(うすざん)の噴火 【時期】 2000年3月31日午後1時7分 【概要】 3月31日午後1時7分、国道230号のすぐ横の西山山麓からマグマ水蒸気爆発。噴煙は火口上3,500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰した。 噴火直後より、内閣安全保障・危機管理室からの要請で札幌行の特急列車を長万部駅で運行を打ち切って洞爺駅へ回送させ、折り返し虻田・豊浦町民を長万部町へ移送する等の避難列車を仕立てた。 翌日には西山西麓や温泉街に近い金比羅山でも新火口が開き、付近に次々と新しい火口を形成した。 火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発した。 同年8月になると深部からのマグマ供給が停止し、9月以降は空振や火山灰噴出の活動は衰えた。 なお、翌2001年の春頃まで続いた一連の火山活動では「新山」の形成は確認されなかったが、地殻変動の結果、西側の山麓では、噴火前よりも最大で約70メートル地面が隆起することとなった。 【被害状況】 国道230号は噴火によって通行不能となり、後に溶岩の貫入による地盤の隆起により階段状の亀裂が発生し通行不能になった。 金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失した。 また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生した。 なお、噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大した。北海道旅客鉄道(JR北海道)室蘭本線は跨線橋の落下などのため一時不通となり、長距離及び貨物列車の一部は函館本線経由で迂回運行された。 3月29日から2001年(平成13年)6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。 熱泥流に襲われ校舎が損壊した洞爺湖温泉小学校は、敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされた。 【特記事項】 2013年現在、比羅山の2つの火口には水が溜まり、池になっていて噴気は観察されないが、西山の火口群は火口辺縁の地熱帯より水蒸気が少量立ち上る状態となっている。 破壊された国道230号は地盤の隆起によって水勾配が変化したため西山麓が水没し、付近の建物が使用不能になった。 この区間の通行は不可能となっていたが、従来の西側に2本のトンネルを掘り、最短距離で内浦湾に抜ける新ルートが建設された。 虻田洞爺湖ICも新ルートの国道に接続する形で移設された。また、不通区間を一部利用した道路も整備された。