2000年10月 鳥取県西部地震

【災害名】 鳥取県西部地震(とっとりけんせいぶじしん) 【時期】 2000年(平成12年)10月6日13時30分18秒 【概要】 1996年の震度階級改正以来、初めて震度6強を記録した。気象庁マグニチュードが7を超える大地震だったにもかかわらず、何人かは生き埋めとなったが救助され、死者はなかった。 これは、震源地が山間部であったことや市街地の一部を除き、人口が密集していない地域であったこと、積雪の多い地域のため頑丈な造りの民家が多かったこと、そして地盤が比較的強固であったことも挙げられる。 鳥取県ではこの地震の2か月前に震度6強の震災が鳥取県西部で発生することを想定して防災訓練を実施しており、訓練の成果として地震発生から10分後には行政および消防当局が対策を実施することができた。 しかし、境港市街の液状化を始め、日野町、米子市などで住宅の倒壊、損壊など物理的な被害は顕著であった。 また震源地が大山にほど近い事もあり大山の噴火も懸念されたがまったく火山活動はなく、津波は観測されていない。 発生:2000年(平成12年)10月6日(金)13時30分18秒 (JST) 震源:鳥取県米子市南方約20 km(北緯35度16.4分、東経133度20.9分、深さ9 km) 地震の規模:M7.3 (Mw6.8) 最大震度:6強(鳥取県日野郡日野町根雨、鳥取県境港市東本町) 【被害状況】 消防庁による被害の状況 人的被害 負傷者 182人 住宅被害 全壊 435棟 半壊 3101棟 一部損壊 18544棟 震度5弱以上が観測された気象庁の発表地点 震度6強 鳥取県 境港市東本町・鳥取日野町根雨 震度6弱 鳥取県 境港市上道町・西伯町法勝寺・会見町天万・岸本町吉長・淀江町西原・溝口町溝口・日吉津村日吉津

2000年9月 東海豪雨

【災害名】 東海豪雨(とうかいごうう) 【時期】 2000年(平成12年)9月11日~12日にかけて 【概要】 2000年9月7日頃から本州付近に秋雨前線が停滞しており、11日から12日にかけて、台風14号の東側を回る暖湿気流が前線に向かって流れ込んだため、前線の活動が活発となり、愛知・三重・岐阜県の東海地方を中心に、雷を伴った非常に激しい雨が降った。 11日夕方ごろから、名古屋市をはじめとする中京地区を中心とした広範囲にわたり大きな被害をもたらし、2日間の積算降水量は多いところで600ミリ前後に上った。 名古屋市では11日の日降水量が、平年の9月の月降水量の2倍となる428ミリとなり、2日間の合計降水量が567ミリに達した。 愛知県東海市では11日の午後7時までの1時間に114mm、日降水量492mmを記録した。 【被害状況】 消防庁によると、東海地方(静岡県・岐阜県・愛知県・三重県)で10人が死亡し、全国で115人が重軽傷を負った。経済的被害は2700億円を超え、1959年の伊勢湾台風以来の水害となった。 名古屋市周辺で多数の浸水被害が生じたほか、中部地方太平洋側の広い範囲で浸水、河道護岸の損壊、崖崩れ、土石流などによる災害が発生した。 この災害により、愛知県名古屋市、一宮市、春日井市、西春日井郡師勝町(現・北名古屋市)・西春町(現・北名古屋市)・清洲町(現・清須市)・西枇杷島町(現・清須市)・新川町(現・清須市)・豊山町、豊明市、半田市、刈谷市、大府市、岩倉市、東海市、知多郡美浜町・東浦町、海部郡甚目寺町(現・あま市)・大治町、北設楽郡稲武町(現・豊田市)、岐阜県恵那郡上矢作町(現・恵那市)の21市町に災害救助法が適用された。 名古屋市周辺で最も浸水被害が激しかったのは、天白区野並地区で、天白川とその支流の藤川の堤防に囲まれた堤内地が水面より遥かに低い地形だったため、行き場を失った雨水が集中し、ポンプ場から天白川に排水した水が、そのまま藤川の支流の郷下川(ごうしたがわ)を逆流して、再度野並地区に流入するという悪循環を繰り返し、やがて地区の住宅の1階は完全に水没し、住居内での溺死者も発生した。ポンプ場も浸水して機能停止したため、水が引くまでに相当の時間を要することとなった。 一方、元々旧市街地を洪水から守る庄内川放流路としての新川洗堰の向こう側に広がった名古屋市内の庄内川水系新川では、長さ100メートルにわたる破堤があったほか、愛知県内で少なくとも10か所で破堤し、名古屋市中川区下之一色町では、洗堰での分流にもかかわらず庄内川が堤防高を超えて溢水するなど、各地で多数の越流があった。 下之一色町三角地区のうち、県道の橋より南側にある集落は浸水により居住不能となり消滅した。 この結果、新川流域(名古屋市西区山田地区、西春日井郡西枇杷島町・新川町(現・清須市))、庄内川流域(名古屋市中川区、春日井市)、天白川流域(名古屋市天白区・南区・緑区など)、境川・逢妻川流域(大府市、知立市、刈谷市、知多郡東浦町など)、名古屋市周辺で多数の浸水被害が生じた。 【特記事項】 岐阜県では矢作川流域を中心とした恵南地域に多大な被害が出たため、この豪雨に関して岐阜県内に限っては恵南豪雨とも呼ばれる。 この地域では家屋が壊れたり流されたりする深刻な被害が出た。 しかしマスコミ報道では、比較的被害の軽かった名古屋市周辺の報道が集中し、取り上げられることはほとんどなかった。 期間降水量は、三重県多気郡宮川村(現・大台町)で1,090ミリとなったほか、四国から東海地方で800〜1,000ミリに達した。 大雨は静岡県・山梨県にもおよび、これらの広い地域で2日間の合計降水量が200〜400ミリとなったところがあった。

2000年6月 三宅島の噴火

【災害名】 三宅島(みやけじま)の噴火 【時期】 2000年6月26日18:30過ぎ 【概要】 6月26日18:30過ぎから三宅島直下で激しい群発地震が始まった。この活動は1983年の噴火直前と酷似しているとして、19:33に気象庁は噴火の恐れが高いと判断し「緊急火山情報」を出した。 翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。 6月27日9:00頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が海上保安庁により確認されるにとどまった。 【被害状況】 地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。7月1日16:00過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が神津島近海で発生、神津島では震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。 噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化し、一方で7月に入ると雄山火口直下の地震が7月4日から再び活発化した。 7月8日18:41に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口(カルデラ)ができていることが翌7月9日朝になってから確認された。 これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。 その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。 7月14日、15日には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。 8月10日の朝6:30頃、山頂の陥没口からついにマグマ水蒸気爆発とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。 その後の爆発は激しさを増してゆき、8月18日の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な火砕サージ、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し火山弾は住宅地にも落下した。 8月29日早朝の午前5:00過ぎの大規模噴火では低温の火砕流が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。 この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった。 この噴火では6:00過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。 小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m3と推定されており、御蔵島だけでなく100km以上離れている八丈島でも降灰が確認されている。 【特記事項】 火山の噴火活動は18日のものをピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。 8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに二酸化硫黄の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した。 火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。 火山ガスの放出は2004年7月20日に観測されたのを最後に1日あたり1万トンを下まわるようになり、翌年2月には全島避難が解除された。 しかしその後も火山ガスの放出は継続し、2011年の半ばになってほぼ1日あたり1000トンを下回った。 2013年1月22日を最後に噴火活動は認められていない。 ガスの放出も2016年夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている。

2000年3月 有珠山の噴火

【災害名】 有珠山(うすざん)の噴火 【時期】 2000年3月31日午後1時7分 【概要】 3月31日午後1時7分、国道230号のすぐ横の西山山麓からマグマ水蒸気爆発。噴煙は火口上3,500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰した。 噴火直後より、内閣安全保障・危機管理室からの要請で札幌行の特急列車を長万部駅で運行を打ち切って洞爺駅へ回送させ、折り返し虻田・豊浦町民を長万部町へ移送する等の避難列車を仕立てた。 翌日には西山西麓や温泉街に近い金比羅山でも新火口が開き、付近に次々と新しい火口を形成した。 火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発した。 同年8月になると深部からのマグマ供給が停止し、9月以降は空振や火山灰噴出の活動は衰えた。 なお、翌2001年の春頃まで続いた一連の火山活動では「新山」の形成は確認されなかったが、地殻変動の結果、西側の山麓では、噴火前よりも最大で約70メートル地面が隆起することとなった。 【被害状況】 国道230号は噴火によって通行不能となり、後に溶岩の貫入による地盤の隆起により階段状の亀裂が発生し通行不能になった。 金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失した。 また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生した。 なお、噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大した。北海道旅客鉄道(JR北海道)室蘭本線は跨線橋の落下などのため一時不通となり、長距離及び貨物列車の一部は函館本線経由で迂回運行された。 3月29日から2001年(平成13年)6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。 熱泥流に襲われ校舎が損壊した洞爺湖温泉小学校は、敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされた。 【特記事項】 2013年現在、比羅山の2つの火口には水が溜まり、池になっていて噴気は観察されないが、西山の火口群は火口辺縁の地熱帯より水蒸気が少量立ち上る状態となっている。 破壊された国道230号は地盤の隆起によって水勾配が変化したため西山麓が水没し、付近の建物が使用不能になった。 この区間の通行は不可能となっていたが、従来の西側に2本のトンネルを掘り、最短距離で内浦湾に抜ける新ルートが建設された。 虻田洞爺湖ICも新ルートの国道に接続する形で移設された。また、不通区間を一部利用した道路も整備された。

1975年4月 大分県中部地震

【災害名】 大分県中部地震(おおいたけんちゅうぶじしん) 【時期】 1975年4月21日午前02時35分 【概要】 九州内陸部を震源とする地震としては、1968年のえびの地震、1975年の阿蘇地震(いずれもマグニチュード6.1)を上回り、当時としては戦後最大規模の直下型地震であった。 気象庁はこの地震に正式な命名を行わなかったが、大分県や研究者によって一般に大分県中部地震という名称が用いられている。 【被害状況】 負傷者 - 22名 住家破損 全壊 - 58戸 半壊 - 93戸 非住家の全半壊 - 104戸 道路・橋梁の損壊 - 185箇所 (1975年(昭和50年)4月24日16時現在、大分県警調べ) 市町村別の被害 庄内町(現由布市) 負傷者 - 5名 建物全壊 - 31戸 建物半壊 - 39戸 道路破損